野花や草木の散歩道で一句

道端の野花、そして草や木。
どこにでも咲いている道端の可憐なお花。
古の歌から生い立ちを辿り、草木たちの古を思い浮かべながら
草花や木々を眺めてみませんか。
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神社に多い、椿の木
JUGEMテーマ:野花と草木を詠う

 霊木としての椿(ツバキ)

━━━ 今日の歌 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

三諸は 人の守(モ)る山 元辺(モトベ)は 

  馬酔木(アシビ)花咲き 末辺(スエベ)は 椿咲く 

    うらぐはし 山そ 泣く児守(コモ)る山 (万葉集)

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緑の葉の中の、真紅の花。
木枯らしにも微動だにせずに、
常緑の緑の葉の中にどっしりと咲いている
木へんに、春と書いて「椿(ツバキ)」


このツバキは、高さが2〜3メートルの小喬木です。
もともと、山地に自生していたようです。


古来から、常緑の木は神聖視されていたようで
このツバキも、霊木とされていました。


宮中では、正月の卯の日に使われた
めでたい杖は椿で作られていました。


「お水取り」として知られている東大寺二月堂の修二会では、
仏前に供える花は、紅白の紙で作られた椿です。


神社や、お寺にはツバキが多く植えられています。
特に、神社の神域には多く見られるようです。
古来から「斎(ユ)つ真椿」と云われ、
神聖視されるおめでたい木として大事にされていた様子が覗えます。


江戸の頃には、品種改良が進み
沢山の園芸品種が見られて、
庭先でも、ツバキが植えてある家庭が多く見られます。


今回の万葉の歌は
春の三輪山には、ツバキだけでなくアシビも咲いていたのでしょう。
その咲いている花を大事に守ろうと詠まれている歌です。


奈良時代の頃から、
自然保護が叫ばれ、大事に育てられてきたからこそ
神社などには、多く残っているのかもしれません。
自然保護は、今でけではなく
ずっと考えられてきた問題だったのかもしれません。


━━━ 今日の詠み歌 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   
   冬晴れに 緑の葉の元 赤き椿

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| | 13:55 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
火をおこし、建材にも使われてきた「檜(ヒノキ)」
JUGEMテーマ:野花と草木を詠う

ヒノキとの生活は、長い歴史です。



━━━ 今日の歌 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 三諸つく 三輪山見れば こもりくの


     始瀬(ハツセ)の 檜原思ほゆるかも(万葉集)
 


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クリスマスのイルミネーションが
あちこちで、きれいに点灯しています。


毎年、サンタやトナカイのネオンが
大きな木に、飾られて輝いていたお家。
今年は、そのイルミネーションが見られません。


ちょっと心配になったので
なんだか、声掛けてみたくなります。
近寄ってみると
毎年イルミネーションが飾られていた木は、ヒノキでした。

イルミネーションがない檜


まっすぐ上に向かって立つ、ヒノキ。
「ヒ(檜)」は、「ヒノキ」の古名です。


「ヒノキ」とは、火の木の意味で
昔は、火起こしする時に、
この木をこすって火を起こすのに
使われていたことからきています。


太古の頃から
山には、常緑で大木のヒノキが
大きく育っていたのでしょう。


今は、スギ花粉の次に到来するヒノキ花粉の方が
知名度が高いかもしれません。


古代の人々は、「火」を神聖なものとして崇拝していました。
そこで「ヒノキ」は、「火」を起こす木でしたので
神聖な木として見られたのです。


ですから、「檜」の字も木をこすると、火がおこるという意味で
この字があてられたものなのです。


人にとっては大事な「火」
その「火」を手に入れた時から
人の生活は、煮炊きが出来るようになります。
食料の保存をするようになります。


「火」のある生活を獲得したことで
今までよりも格段に生活が向上したのだろうと思います。


その「火」を起こした、ヒノキは太古の昔から。
人とともに地に根を張り、大木になっていたのでしょう。


大きくなったヒノキは、優れた建材として、昔も今も使われています。
日本特産のヒノキの材には、多くの用途があります。


昔から神聖な木として、多くの建物などに使われてきました。
大部分の神社仏閣、そして木造の仏像など多く使われています。


舞台の床もヒノキの板で張った舞台が格の正しい舞台とされていました。
「檜舞台に立つ」ということは
一流の舞台に立てるまでに腕前が認められたと使われています。


その他に、ヒノキの皮で作った、ヒノキ笠や
ヒノキ綱は、丈夫なものでしたのでいろいろな場面で使われていました。

神聖視されていたヒノキで作られたものは、
今でも、他の材よりも、一線上をいくものになっています。

万葉の頃、
奈良の三輪山の近辺は
ヒノキが多かったのが思い浮かぶような歌が
万葉集には数首見られます。

三輪山を見ると
すぐ後ろの始瀬(ハツセ)の檜原も見えるでしょうと謡っています。
万葉の時代には、
三輪山近辺は、常緑の檜が多く立ち並んで
おごそかな雰囲気を持っていたのかもしれません。


━━━ 今日の詠み歌 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


   
   サンタの燈 今年は見えぬ みどりの檜
   


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| | 15:26 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
時じくの香の木の実とみかん
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田道間守が苦労して手に入た橘の実

 ━━━ 今日の歌 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 橘は 実さへ花さへ その葉さへ


   枝に霜降れど  いや常葉の樹 (聖武天皇)
 

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今年のミカンは、台風被害に遭わなかったので豊作と聞いています。
庭木のミカンもたわわになっています。
みかんの色もいい色しています。

実をつけたみかんみかんと言われる柑橘類は
いつ頃から食べられていたのでしょうか。

中国では紀元前1000年前後、
周の国の「詩経」に
「柚(ユズ)」の記述があります。

日本では、
古くは、記紀に田道間守(タジマモリ)の
“橘”導入伝説があります。


病気静養の垂仁天皇が
田道間守を常世の国に遣わして

「時じくの香の木の実」(ときじくのかくのこのみ)と
呼ばれる物が年中実っており、
それを食べると延命長寿の効果がある。
不老不死の力を持ったその
霊薬を採りに行かせたという話です。



田道間守が持ってきた「時じくの香の木の実」と言われた橘の実は
古事記の本文では「是今橘也」(これ今の橘なり)とされていますが、
実際にそれが橘そのものであるかどうかは明らかではありません。

更に、西暦297年、中国の陳寿が書いた「魏志倭人伝」には
日本では「はじかみ、橘、胡麻、茗荷が自生しているのにその滋味を知らず」
つまり、食に用いることを知らないと書かれいます。

皮が薄い、こうじみかん

では、田道間守が苦労して手に入た橘の実はどんなものだったのでしょう。

・日本の原生であるとされている橘、
・紀州蜜柑といわれる中国原産の小ミカン、
・漢方薬にも使うダイダイ、
といろいろな説があります。
百済などの交流や
遣隋使、遣唐使などが、持ち帰ってきたことは想像できます。
それらは、食用というより、薬用として使われていたようです。

聖武天皇の歌に、橘を詠んだ歌。
葛城王佐為王が臣籍に下り、
橘諸兄と「橘」姓を受けた宴席で詠まれた歌です。

タチバナが、冬にも常緑を保ち
生命の根源である太陽のような黄色い実をつける様から
めでたい瑞木とみていたようです。
薬用効果があり、瑞木として栽培されていたのかもしれません。

この橘は勲章のデザインとしても使われています。
当初は、サクラの花のデザインが考えられたのですが、
昭和天皇が「桜は散るところに価値があるが、文化は永遠であるべき」との意向で
常緑樹の橘によるデザインになったと言われています。

古名は、柑橘類を総称してタチバナと呼んでいます。
その栽培の歴史は
みかんの接ぎ木の突然変異とする説もありますが
ただその経緯は明らかになってません。

紀州ミカンとして、人々に親しまれるようになったのは
江戸時代になってからのようです。
当時江戸で高騰していたミカンを紀州から運搬したのは
江戸時代の豪商である紀伊国屋文左衛門です。
これらの事業の成功で富を得たことでも有名です。
明治以降は、品種改良が進んで
ミカンの種類も多くなり、甘味も増して美味しくなっています。

年の瀬も近くなり
炬燵の上のミカンはなくてはならないものです。
ビタミンCを摂って、風邪をひかないようにしましょう。

━━━ 今日の詠み歌 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

   
   実を揺らす 橘の木に 鳥が舞う 
   

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| 初冬 | 17:56 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
つつましくうつむきながら咲く、「茶(チャ)」の花
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生活になくてはならない、「茶(チャ)」の花。

━━━ 今日の歌 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 茶の花は 開きつくさで こぼれけり
 
      日かげの庭の 上は凍てつつ
(若山 牧水)


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例年であれば、花を落としている「茶(チャ)」の花。
今年は暖かな日が続いたせいか
葉の緑に映えて、つつましくうつむきながら白い花が咲いています。
以前は、垣根にも多く使われていた「チャ」の木。
低木で、ツバキ科に属しています。

うつむき咲く花

この「チャ」は中国が原産です。
古代の中国では、
茶の葉を蒸した後、モチ上につき固めた団茶でした。
飲むには、火であぶり
砕いて粉にした後、
ネギやショウガやかんきつ類の皮を加えていました。

唐の陸羽(リクウ)は茶道の祖とされています。
「茶径」は、三巻十章からなる茶の経典です。
そこには、茶の歴史、栽培、製法、茶器、茶の立て方、喫茶法などを
集大成したものです。

日本には、いつ頃入ってきたのでしょうか。
はっきりとはしませんが、遣隋使、遣唐使が
中国での風習に触れ、
持ち帰ったことは充分に予想がつきます。

「東大寺要録」によると、
僧行基が、天平年間(729年〜749年)に
諸国に、49の堂舎建てて、「チャ」を植えたとのこと。

弘仁6年(815年)に嵯峨天皇が、
諸国に「チャ」を植えたという記録もあります。

全国からの献上品が記述してある
「延喜式」(927年)には、茶かごはありますが
「チャ」の記述はありません。
一般的には、栽培はしてなかったのかもしれません。


凍てつく風に揺れる花その後、1191年に
臨済宗の開祖・栄西禅師が
宋から、種子を持ち帰り
九州の平戸や、
佐賀県の脊振山などで栽培しました。
現在に伝わる「チャ」はこの頃からです。

その種子を明恵上人が、
京に持ってきて根づかせました。
その後、
宇治で栽培されるようになります。



栄西禅師は、「喫茶養生記」を著しています。
宋で発展していた、抹茶をひろめています。
更に、源実朝にも勧めたことにより、武家社会にも浸透したのです。
これらのことにより、日本の茶道の礎を築きました。

江戸時代初期までは贅沢品であったお茶も
茶の栽培が進んで、普及していきます。
江戸時代後期には、庶民もお茶を飲むようになりました。

茶葉は、同じ様なものでも
製造法は、蒸して揉んだり、発酵のやり方で
日本茶、紅茶、中国茶など、
お茶の種類は、バリエーションが豊富になっています。
毎日の生活に、なくてはならないお茶です。

毎日飲んでいるお茶の花は、晩秋から咲いています。

今回は、万葉の歌ではなく
明治の時代、早稲田大学で「早稲田の三水」と呼ばれた若山牧水の歌です。


━━━ 今日の詠み歌 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


   
   木陰の茶  師走の寒気  白き花 
   


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| 初冬 | 15:42 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |


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